【茨城県A】笠間焼

@概要(定義・指定要件)

笠間焼は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶器である。江戸時代に信楽焼きの技術を導入したことが笠間焼の起源であるとされ、以降、百数十年に及ぶ関東一の歴史を誇る厨房用粗陶器の産地であった。

戦後になると厨房用粗陶器より工芸陶器を主流として、伝統を受け継ぎながらも作家の個性をより重んじる方向へと産地の気風が転換した。こうした自由闊達の空気は多くの陶芸家たちを惹きつけ、県外からも築窯希望者が増加し、現在では約300人に及ぶ陶芸家や窯元がひしめく、元気のある窯業産地となっている。 笠間焼は1995年に伝統工芸品に指定された。

A特徴

笠間焼の最大の特徴は、江戸以来の伝統を受け継ぎつつも、それに捕らわれない自由な産地の風土である。これは時に「特徴がないのが特徴」といわれるほどであり、安価で実用的な水瓶や徳利から芸術的で斬新なデザインのオブジェまで、実に多種多様な焼き物が焼かれている。全国各地あるいは外国から移住する陶芸家も少なくなく、開かれた産地として、個人や夫婦の陶芸家がすべて手作りで少量多品種の焼き物を生み出している。

技法面での特徴は、釉薬による装飾技法が多彩なことであり、釉薬の流し掛け、重ね描き、青すだれ、窯変など様々な技法が活用されている。また、笠間焼に使用される粘りが強く成形しやすいという特徴がある。また鉄分を多く含むため焼成後には有色となり、笠間焼独特の風合いを生み出す。

B産地

茨城県笠間市、水戸市、石岡市、常陸太田市、ひたちなか市、筑西市

C歴史

笠間焼のはじまりは、江戸時代中期に箱田村(現在の笠間市箱田)の久野半右衛門が、信楽の陶工・長右衛門の指導を受け、築窯したことにあるとされる。その後、笠間藩の保護を受けて甕(かめ)・擂り鉢などの日用雑器が作られた。明治時代には19の窯元を有し、特に厨房用粗陶品の産地として知られるようになった。

しかし戦後、プラスチック製品の流入など人々の生活様式の変化にともない、笠間焼の需要は減少、産地は危機を迎える。この復興の大きなきっかけとなったのが、関係者の熱意を受けて1950年に誕生した茨城県窯業指導所である。ここを拠点として工芸陶器を目指した釉薬の改良、粘土の研究、陶工養成などを行われ、みごと工芸陶器への転換に成功し、窯元の数も1970年には30、1980年には100を超えるほどの隆盛を迎えるようになる。
1990年には笠間焼協同組合が設立され、現在、関東地方では益子焼と並ぶ大きな窯業産地を形成している。


D産業の現状(出荷額、産業人口などを含めて)

筑波総合研究所が行ったヒアリングによると、2012年の笠間焼産地の規模は、企業数270社、従業者数450人、出荷額10億円で、従業者数は増勢にあるとのことである(笠間焼協同組合・深町明事務局長)。

E主な事業者、職人

130軒を超える会員をもつ笠間焼協同組合が中心となって、生産販売や後継者育成を行っている。創業200年の歴史を持ち、関東最古の登窯を見ることができる「製陶ふくだ」や、明治時代初期に開窯し、2400坪という笠間でも有数の広さを持つ「桧佐陶工房」などの老舗窯元のほか、若手陶芸家による自由で現代風な作品まで多種多様に創作されている。

F新たな取り組み、産業の広がり(近年の活動内容等)

笠間焼では、都市部に販路を求める動きと、地域そのものの活性化につながる動きの両方が取り組まれている。
販路に関しては、笠間焼は現在、県内での販売がほとんどであり、主に家庭向けの高付加価値商品が多い。伸びしろが大きい市場として業務用食器への販路拡大が取り組まれつつある。
地域活性化の面では、毎年ゴールデンウィークに「陶炎祭(ひまつり)」が開催され、200軒以上の陶芸家・窯元・地元販売店などが笠間芸術の森公園において出品するという、他に類を見ない大規模な陶器の祭典となっている。

また「笠間を堪能する芸術と食事と観光の街」を銘打って「笠間ギャラリーロード」というプロジェクトが展開されており、笠間芸術の森公園の建設に合わせて造られた全長約2kmのギャラリーロードとして、個性的なギャラリー、おしゃれなカフェ、レストラン、ホテルなどが20店舗以上が立地している通りであるが、若手陶芸家と商店会が連携してイベントやワークショップを行う「“陶ISM in 笠間ギャラリーロード”」は茨城県の商店街活性化プランの2013年度最優秀賞にも選ばれている。