【新潟県D】十日町明石縮(とおかまちあかしちぢみ)

@概要(定義・指定要件)

十日町明石ちぢみは、新潟県十日町市で生産される絹織物で、最高級の生糸に高度な撚糸(ねんし)技術を加え、繊細で緻密な工程を経ることによって、「蝉の翅(はね)」とも呼ばれる軽くて涼やかな着心地を実現した夏向けの高級着尺である。柄は絣柄か縞柄が代表的で、織り上げた後に湯揉みをすることで独特の「シボ」(細かいしわ)と柔らかな風合いが生まれる。「明石」の名称は兵庫県明石市に技術的ルーツがあるからとされる。「十日町絣」とともに1982年に伝統的工芸品に指定された。


A特徴

十日町明石ちぢみの最大の特徴は、横糸に強い撚りを加え、湯揉みをして作り出す独特の「シボ」と、涼やかで軽い薄手の生地であり、夏向けの着物に多用されている。特に使用される横糸には不物が大敵であるため、繭の真ん中部分から繰り出される最高級の生糸を原料にされる。
また、薄物であるがゆえに、糸染め・絣・巻き・織りなどの各工程に通常の織物以上の技術や集中力が必要となるといわれる。まさに職人の技術の粋を集めた最上級の織物といえる。
実際にこの十日町明石ちぢみは、明治中期の発売時には大流行となり、十日町を絹織物のまちとして全国に知らしめた大ヒット商品でもあった。当時美人画で一世を風靡していた竹久夢二を起用し、コマーシャルソングとして「越後名物数々あれど、明石ちぢみに雪の肌」で始まる十日町小唄を製作して流すなど、巨額の予算をかけたマーケティング戦略が実行され、十日町明石ちぢみは流行の最先端となったのである。

B産地

十日町絣の主産地は、新潟県十日町地域である。

C歴史

十日町は今日、高級絹織物産地として京都に次ぐ規模となっている。織物の歴史は古く、飛鳥・天平時代の昔から自な生している苧麻(ちょま、からむし)を素材とした麻布の生産が盛んに行われ、江戸時代に入ると越後上布、または高級夏織物である越後縮の生産地として知られるようになった。
幕末以降、十日町が絹織物に転換したのは江戸時代の町民文化を背景にしている。日本各地に続々と新興の絹織物産地が生まれる中で、次第に原料も麻から絹へ変化していった。
明治時代になって発売された十日町明石ちぢみは、品質の良さとマーケティングの成功から日本の夏の着物として大流行となり、十日町は全国有数の絹織物産地として地歩を確立した。
戦争中の統制経済などを経て、戦後はほとんど生産数がない時期があったが、近年になって復刻生産が行われるようになり、現代の着物ファンを拡大している。

D産業の現状(出荷額、産業人口などを含めて)

戦後は染色も行うようになり、布完成までの一貫生産が実現したことで京都に並ぶ絹織物の産地となった。近年では着物需要の伸び悩みによって工場閉鎖が相次ぐなど産業としては決して順風ではないが、着物文化の普及や新商品開発など意欲的な取り組みが行われている。
なお、十日町の着物は現在、振袖、留袖、訪問着、付下といった後染め商品が約8割、紬絣が2割という割合となっている。

E主な事業者、職人

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F新たな取り組み、産業の広がり(近年の活動内容等)

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