【長野県A】内山紙(うちやまがみ)

@概要(定義・指定要件)

長野県の飯山市・野沢温泉村・栄村などで生産される、楮(こうぞ)を原料とする高級和紙であり、内山書院紙ともいう。400年以上の伝承文化に基づいて生産される手技が和紙本来の美しさ・強靭さを体現させ、1976年に「障子紙」ならびに「筆墨紙」が伝統的工芸品に指定された。

伝統的な技術または技法

300年以上の歴史を誇る。
雪晒しなど

伝統的に使用されてきた原材料

楮のみを原料とする


A特徴

楮100%の手漉き和紙であり、強靭で通気性・通光性・保温力に優れている点、また、楮皮を雪上に広げて天日にさらす(「雪晒し」)ことで、雪が溶ける際に発生するオゾンが有する漂白効果によって楮皮が漂白され、苛性ソーダや炭酸ソーダなどの薬品の使用量が少なく自然で真っ白な美しい仕上がりが得られることに加え、日焼けせずに長持ちする点が特徴である。通気性・通光性の良さから最高級の障子紙として重用されている。また、変色しにくい性質から筆墨紙(筆墨で書き記すのに使用される紙)にも最適であり、官公庁で使用される手漉きの台帳用紙の大部分をこの内山紙が占めるといわれている。
なお、紙の均質な厚さや固さに細心の注意を払って手漉きで漉くために、卓越した技術者でも1日200枚程度しか生産できない。


B産地

長野県飯山市/下水内郡栄村/下高井郡野沢温泉村

C歴史

伝承によると、寛文元年(1661)、信濃国高井郡内山村(現在の長野県下高井郡木島平村内山)の萩原喜右衛門という人物が、美濃の国で習得した製法を持ち帰り、自家で漉いたのが始まりとされている。ただし、これには異説があり、山岳の狩猟集団であるマタギが山野に自生する楮皮から紙を漉く技術を覚え、当時、北信濃の三大修験場として隆盛を誇った小菅山修験場(現飯山市内)に紙を納めて生活の糧としたことが始まりとも言われている。確かな起源は不明であるが、他から伝わった技術に対して地名から「内山紙」と名付けられた模様である。
原料となる楮は自生していて容易に入手できたことから、農家が現金収入を得るための冬の副業として、江戸時代には奥信濃一体で紙漉きが行われるようになったと考えられる。
その後、明治時代になると製造方法に改良がくわえられ、動力が導入されるようになった。明治42年には、製造者1,130戸、販売業者175戸、原料業者49戸の計1,354戸で長野製紙同業組合が設立されるなど地域の産業として成長した。しかし、大量生産の洋紙が普及する中で和紙生産は下火となり転業が相次いだことから昭和24年に組合は解散し、残った事業者によって北信内山紙工業協同組合が設立され、伝統工芸の継承が行われている。

D産業の現状(出荷額、産業人口などを含めて)

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E主な事業者、職人

内山紙協同組合には7社(名)の組合員が名を連ねているが、このうち理事長である有限会社阿部製紙を中心となって内山紙の保存・継承・発展のための活動がなされている。なお、内山紙の伝統工芸士は5名である。

F新たな取り組み、産業の広がり(近年の活動内容等)

近年の大きな取組みとして、2007年に開学した「いいやま匠大学」がある。同大学はものづくりと人づくりの拠点として、飯山市が地域の産業・伝統工芸を支える匠の技術・技能を活かして新たなビジネスを創出するために設立したものであり、「和紙工芸科」が開設された。
同科はデザインやファッションなどの専門的なノウハウを持つ文化学園大学(東京都)と連携し、紙すき体験により3〜1級・初段が認定される「和紙工芸基礎専攻」、実務経験を積んで独立をめざす「和紙工芸士専攻」、和紙を活用した工芸品の開発や素材研究を行う「和紙工芸デザイン専攻」の3専攻が設置され、有限会社阿部製紙 安部代表取締役本人が講師を勤める「阿部工房キャンパス」の他、文化学園大学の飯山・東京の2施設で授業が行われる。これには文化女子大学生だkではなく、全国の美術系大学性から一般まで受講可能である。※現在も継続しているかどうか要確認。
これ以外にも、観光客を対象とした紙漉き体験工房、6日間集中で内山和紙の真髄を学ぶ着地型観光の企画など、キー事業者や市・観光協会によって後継者育成の取組みが熱心に行われている。