福島県会津美里町(旧会津本郷町)周辺で古くから生産されている陶器及び磁器。種々の釉を用い、茶器や酒器、湯呑み、花器など多種多様な製品を作る東北最古の伝統的な陶磁器。
陶器と磁器の両方の産地であり、一つの窯元で両方の焼き物を生産している場合もある。磁器は青く彩色した呉須染付、あるいは種々の釉を用いた多色による色絵などが特徴。陶器はあめ釉や灰釉など伝統的な釉薬を用い、素朴で親しみやすい味わいの実用的な作陶が展開されている。あめ釉を使った陶器で特に有名なものがニシンの山椒漬けに使用される「鰊鉢」であり、文字通りあめ色の光沢を放つこの陶器は会津本郷焼の代名詞ともなっている。
文禄2年(1593年)に会津領主になった蒲生氏郷公が黒川城(後の会津若松城)の改修を実施するにあたり、城郭の屋根を瓦葺きにするために播磨国(兵庫)から瓦工を招いて屋根瓦を焼かせたのが発端とされている。その後正保2年(1645年)に会津松平藩祖である保科正之公が長沼(福島県岩瀬郡長沼町)から、尾張国瀬戸生まれの陶工・水野源左衛門成治を召し抱え、会津に焼き物産業を興すように命じる。源左衛門は原料を探すため会津の山々を探索し、本郷に良質な粘土を発見。試行錯誤の末に凍み割れしない瓦を発明し、本格的な陶器の製造が始まった。
一方、磁器は寛政年間(1789〜1801年)に興る。創業者の佐藤伊兵衛は安永年間(1772〜81年)より白磁の開発を思い立ち、寛政9年(1797年)に故郷を発して、遠く佐賀藩に赴き、有田の白磁製法を学んだ。2年後に会津に帰ると白磁製造役場を築き、弟子も有田風磁器焼成用登り窯を建築。地元で産出する白い土石など数種を調合して用い、白磁を志してから20年以上の時を経て、ついに会津白磁を完成させた。伊兵衛は81歳で亡くなるまで後継者の育成に尽力し、多くの名工が世に輩出。幕末に会津本郷焼は隆盛を極めた。
戊辰戦争で会津の窯業は壊滅的な打撃をこうむったが、伊兵衛の志を受け継ぐ陶工らの努力により10年を経ずに復興。明治中期には再び盛り返し、欧米各国にまで盛んに輸出されるほど盛況期となった。大正5年の大火事で多くの製陶工場が焼けて再び窮地に陥ったが、陶工らはそれをもしのぎ、長く繁栄の時代を築いた。
【技術・技法について】
1.成形は、次の技術又は技法によること。
(1)ろくろ成形、手ひねり成形又はたたら成形(板状の粘土を組み合わせて作る手法)によること。
(2)磁器にあっては、(1)に掲げる成形方法によるほか、素地が(1)に掲げる成形方法による場合
と同等の性状を有するよう、素地の表面全体の削り成形仕上げ及び水拭き仕上げをする袋流し成形
又は「二重流し成形」によること。
2.素地の模様付けをする場合には、印花、櫛目、はけ目、イッチン盛り、面とり、はり付け、布目、
化粧掛け又は彫りによること。
3.下絵付けをする場合には、線描き、つけたて(輪郭などを描くことなしに、直接水墨または彩色で
描く手法)、浸しつけ又はだみ(水を加えて薄めた絵具で描く手法)によること。この場合において、
絵具は、「呉須絵具」(酸化コバルトを主成分とした藍青色ないし紫青色のもの)、「鉄錆絵具」
又は「銅絵具」とすること。
4.釉掛けは、浸し掛け、流し掛け又は塗り掛けによること。 この場合において釉薬は、磁器にあっては、
「木灰釉」、「石灰釉」、「青磁釉」、「海鼠釉」(藍紫色を主体とし流紋や波紋が生じるもの)、
「鉄釉」、「銅釉」、「黄磁釉」又は「金結晶釉」、陶器にあっては、「土灰釉」、「あめ釉」、
「白流し釉」、「青流し釉」、「鉄釉」、「銅釉」、「黄磁釉」、「貫入釉」又は「乳白釉」とすること。
5.上絵付けをする場合には、線描き、つけたて又はだみによること。
【原材料について】
1.使用する陶土は、磁器にあっては、「大久保土」、「砂利土」、「胃土」又はこれらと同等の材質を
有するもの、陶器にあっては、「的場粘土」、「大久保土」又はこれらと同等の材質を
有するものとすること。
閑山窯
樹ノ音工房
酔月窯
陶房 彩里
窯元 流紋焼
会津本郷焼事業協同組合
〒969-6100 福島県大沼郡会津美里町川原町甲1823-1 会津本郷陶磁会館内
Tel. 0242-56-3007
約32億円(うち伝産品約2億2500万円)
*平成5年に経済産業大臣により、「伝統的工芸品」に指定されている。
*経済産業省が認定する「伝統工芸士」は7名。