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田子町自慢のにんにくは栄養と旨みをため込んだまさに粒ぞろいの逸品だ |
新宿タカシマヤの生鮮食料品売場のにんにくコーナーには様々な銘柄のにんにくが並ぶ。国内シェア75%の青森県産がその大半を占めるが、その中にひな壇の最上段でひと際目立つ位置に陣取るにんにくの姿が目に入る。一株ずつ丁寧にネットに入れられ、いかにも高級そうな雰囲気を醸し出すそのにんにく。それこそ、今日本で最も単価が高い「高級にんにく」のひとつであり、青森県の田子町を出自とする「たっこにんにく」なのである。値段を見ると一株あたり399円。同じコーナーに並ぶ青森県産のものも一株200円と高い部類に入るが、それより頭ひとつ抜けている。まさに最高ブランドである。
味を確かめるために、そのまま素揚げにし、食してみる。すると味わいは実にまろやかで、まるで栗のようである。一般的なにんにくで時折感じる、口中にまとわりつくようなしつこい臭みは全くない。マイルドで爽やかな印象さえも受ける。それはブランド品にふさわしい味であり、期待通りといえるものだった。だが、たっこにんにくが一朝一夕でこの味にたどり着いたわけではない。また簡単に高級ブランド化を実現したわけでもない。そこには数々の苦難を乗り越えてきた歴史があり、地域一丸となって取り組んできた軌跡があるのだ。
町おこしを“にんにく”に託す
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雄大な自然が広がる山間の町でにんにくはスクスクと育つ |
青森県最南端、秋田県と岩手県の県境にある町、田子町。古くはアイヌ人が先住し、町名もアイヌ語で「小高い丘」を意味する「タプコプ」から来ているといわれる、自然豊かな山間の町。ここが今では「日本一のにんにくの町」として知られている、たっこにんにくの故郷である。ただ、元々にんにくの産地だったわけではない。
戦後は木炭の生産が主な産業だったが、需要の激減により程なく立ち行かなくなる。雑穀やリンゴ、米などの栽培に手を出す農家もあったが、山間部で、冬は八甲田山から強烈な風が吹きつけ、土壌が火山灰であるなど、農業に適さない“悪条件”が揃った土地柄。どれも本格的な換金作物には発展しなかった。いってみれば産業らしい産業が全くないのが田子町の当時の現実だったのである。「非常に苦しい状況だった。だから、それを打破するために、一刻も早く新しい産業が必要だった」と、田子町町役場経済課の川村武司氏はそう振り返る。
そして、その頃、ある噂を耳にする。「福地村(田子町の北東にある村)で栽培しているにんにくが結構な儲けになっているらしい……」。田子町農協では、青年部の面々がわらにもすがるような思いで福地村に足を運び、「福地ホワイト6片種」の種を購入。昭和37年、にんにくの栽培が開始されることになったのだ。
最初は育て方がわからず、失敗の連続。しかし、それでも何とか4年後の昭和41年に初出荷に漕ぎ着ける。その後は「作れば売れる」という好循環のもとに産業として飛躍的な発展を遂げ、昭和44年には農協内に「にんにく生産部会」が発足。生産農家も増え、田子町は活況に沸いた。だが、すぐにひずみは訪れる。農家がこぞって作付けしたために、にんにく市場が飽和状態となり、価格が急落。田子町は再び冬の時代を迎える。
苦難の末、たっこにんにくをブランド化
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肥沃な大地で育ったにんにくは、梅雨明けあと、2週間足らずで一気に収穫される |
ここで、農協は産地としての生き残りを図るため、大きな決断をする。「それが、選果でした。つまり、品質の基準を設け、基準より小さいなど規格外のものは農家に突き返すなど、厳しいチェック体制をしいたのです。これが、品質の高いものだけが残ることにつながり、結果的にたっこにんにくの評価の向上に大きく貢献することになりました」(川村氏)。
さらに、土壌改良にも注力する。田子町では、農家が酪農家に稲やわらを譲り、その見返りとしてたい肥を受け取るシステムを構築。手に入れたたい肥は火山灰のやせた土地に積極的に入れた。その甲斐もあり、土地は肥沃化。良質なにんにくを育てるパワーが大地に宿っていったのである。
どの箱を開けてもトップクラスの品質に統一されているたっこにんにくに対し、市場の評価も日増しに高くなっていった。田子町は、この追い風に乗り、ブランドとして確固たる地位を築くため、さらなる施策を打ち出す。それは、商品を卸す小売店を絞り、値決めをその小売店と交渉しながら進めていく、積極策だった。生産者が販売の最前線に乗り込んでいったわけである。
「にんにくには大きさや色などを基準に分けられる『等級』がありますが、高級スーパーや百貨店向けのものは最高等級を振り分け、最も高値で売るようにする。東京でいえば、紀伊国屋や明治屋、大丸ピーコック、高島屋、三越、伊勢丹向けがこれに当たりますね。一方でサミットや生協にも商品を卸しますが、等級を下げて、価格も下げる。いずれにせよ、卸売り業者ではなく、生産者である我々が価格決定権を握ることがポイントだった」と、川村氏。交渉は容易ではなかったが粘り強く進めた。その結果、安売りの対象になって値崩れを起こすことのない、独自の流通ルートが完成。たっこにんにくのブランド化はここに成立をみたのである。
圧倒的なブランドを国内外にアピール
たっこにんにくは、毎年9月下旬に畑に植え付けられ、翌年の6月下旬〜7月上旬に収穫の季節を迎える。収穫のときは、町全体がにんにくのほのかな香りに包まれる。にんにく一色に染まるわけである。収穫量は1200〜1300トン。国内のにんにくの収穫量は年間1万8300トン(平成17年度)であり、その75%にあたる1万4000トン近くが青森県産であることを考えると、それは圧倒的に多いわけではない。だが、ブランド品としての市場性、店頭での存在感は他の追随を許さないほど高い。それこそ圧倒的である。
田子町では、にんにくを核にした多方面の活動にも力を入れている。国内では、毎年10月に「にんにくとべこまつり」を開催。県内外から約6000人を集める大きなイベントとなっている。またにんにく派生商品の企画、販売にも熱心だ。にんにくラーメンやにんにくワイン、にんにくアイスクリーム、にんにく入浴剤など幅広いラインナップを展開する。
海外とは、昭和63年に米国西海岸の一大にんにく生産地であるギルロイ市と、平成4年にはイタリアのにんにく生産のメッカであるモンティチェリ町と、それぞれ姉妹都市の契約を交わした。にんにく消費量の多いお隣の韓国でも、高品質のにんにくを生産する瑞山(ソーサン)市と友好都市関係を結ぶ。こうした、「にんにくイベント」や「にんにく外交」も、たっこにんにくの世界観を広げ、ブランドとして厚みを持たせるのに、間違いなく一役買っているのである。